(DFP)

場所

アルバニー

アルバニー地域には元々、アルゴンキン語族、特にモヒカン族とイロコイ族が住んでいた。1609年にオランダ人探検家ヘンリー・ハドソンがアルバニーの所有権を主張し、1614年に入植して、すぐに交易所が作られた。

1664年にイギリスがこの地域を支配し、地名をべバーウィックからアルバニーに改める。イングランドとフランスとの緊張が高まる中で、北にある敵の植民地を攻撃するため、アルバニーに部隊が召集される。
ウィリアム・ジョンソン大佐がアルバニーのイロコイ連合に呼びかけて味方を集め、フランスに対して宣戦布告するように説得する。

イギリス商務院は、共同防衛について話し合うため、各植民地がアルバニーに集まることを提案する。ベンジャミン・フランクリンが植民地同士の団結について初めて提案したのは、この会議においてであった。

(私はイギリスのローズ・オブ・タイムのほうが好き。分かってもらえるかしら。-V.)

アンティコスティ島

フランス人探検家ジャック・カルティエは、1534年、ヨーロッパ人として初めてアンティコスティを発見した。最初はアソンプション島と名づけ、奇妙な呪われた島だと宣言した。しかし17世紀までには、この地域の先住民が呼ぶ名を真似て、この島はアンティコスティと呼ばれるようになっていた。

歴史的に見ればもっぱら狩猟の場でしかなかったが、フランスのルイ14世が探検家ルイ・ジョリエに譲渡した1680年、島への入植が始まった。世界最大の私有島を所有することになったジョリエは、そこに家族の砦を築いた。恐らく海岸線が危険であるため、島の大きさにもかかわらず、アンティコスティの人口が大きく増えたことは一度もない。

(一口メモ:島の周囲の岩と岩礁で400隻異常の船が座礁しているため、「湾の墓場」というアダ名がついている。-V.)

アンティコスティは七年戦争を終結させたパリ条約の一部として、大英帝国の領土になり、1867年には正式にケベック州の一部となった。

スリーピー・ホロウ


ニューヨーク


ハリファックス


マウントバーノン

ローレンスとジョージの曽祖父、ジョン・ワシントンは、1674年、友人ニコラス・スペンサーと共に土地を買った。その土地は当時、先住民の言葉でエプスワッソンと呼ばれていた。1690年、ワシントンとスペンサーの相続人が土地を分け合い、ワシントン家はリトル・ハンティング・クリーク沿いの地所を取ることになった。

ローレンス・ワシントンの父オーガスティンはそこをリトル・ハンティング・クリークと名づけた。1738年、ローレンスはイングランドの学校から戻り、一家が経営するタバコ農園を監督するようになる。地所を相続した時に彼は、英国海軍で自分の指揮官だったエドワード・バーノン海軍中将にちなんで、そこをマウントバーノンと改名した。後に相続した腹違いの弟ジョージ・ワシントンも、この名前を継承した。

リスボン


リバーヴァレー

ジョン・カボットなどの探検家がセント・ローレンス川の湾について15世紀記しているものの、地元のイロコイ族の助けを得て川そのものをヨーロッパ人探検家として最初に登ったのは、ジャック・カルティエだった。彼はフロン・イロコイの言葉で村を意味するカナタを勘違いし、川の北側の広い地域を「カナダ」と呼び始めた。

探検家と毛皮商が領地を切り開いた。イギリスが西に拡大するのをフランス入植地が制限したため、間もなく、フランスの拡張政策をイギリスは危惧するようになった。イギリスとフランスは植民地で頻繁に衝突し、1755年、七年戦争が勃発することになる。 

北大西洋

古代スカンジナビア人の入植地がニューファンドランド島その他の北アメリカ地域で見つかっているものの、大西洋を超える重要な接点がもたらされたのは、クリストッファ・コロンボが1492年に行った有名な航海が最初だった。南北アメリカを植民地化すべく、ヨーロッパの強国が競い合うことになった。

(アブスターゴは「クリストファー・コロンブス」を前記のように綴るべきだと主張している。被験体17号と何らかの関係があるらしいけど、それ以上私は知らない。イライラするわ。-V.)

北大西洋の寒冷な気候が、この過程を困難にした。冬の寒さと、先住民の抵抗によって、ヨーロッパ人による初期の植民地化の試みは、多くが失敗に終わった。

しかし18世紀までには植民地はしっかりと築かれており、大西洋を渡る貿易路も一般的になっていた。それでも最北の地域は、最も大胆な探検家でさえも氷に阻まれて、比較的未開拓のままだった。

(DFP)